★戦国時代に終わりを告げたのは大阪夏の陣。
徳川家康の軍は総勢20万人。
外堀の水をせき止めたり、
地下道を掘り天守閣の真下に爆薬をしかけたり、
大砲を撃ち込んだりと派手に攻め、
豊臣秀頼軍の死傷者は2万人にも及んだ。
★豊臣秀吉は城攻めの名手と言われたが、
城作りも得意だった。
作った城の数も一番で大小とり混ぜて10もあり、
中でも有名なのが、
あっという間に築いた墨俣の一夜城。
豪華さでは京都の伏見城が有名だ。
★織田信長の命令で羽柴(後の豊臣)秀吉が、
1566年に、一夜で作った≠ニ言われるのが、
墨俣城(すのまたじょう)。
全ての資材を切り揃えて、
現地で組み立てるという合理的な方法で、
一夜とまではいかないが、
僅か8日間で完成させた。
★戦国時代後半に鎧は機能を重視されはじめた。
「当世具足(とうせいぐそく)」は、
兜、陣羽織、籠手、手甲、仏胴、軍扇、脛当、草鞋
で構成された鎧で、
熟鉄(なまがね)と鋼を組み合わせ、
鉄砲にも槍にも対応できるうえ、
動きやすいよう工夫されていた。
★戦国時代最大の軍艦は長さ約24m、幅約13m。
1578年、第2次大阪湾海戦の為に、
織田信長が7隻も造らせている。
第1次海戦で沈没させられた経験を活かし、
表面を鉄板で装甲した立派な物だったという。
★下克上のまっただなかといえ、
将軍を殺したのは松永久秀唯一人。
室町幕府の実力者である三好長慶に仕えながら、
隙を狙い、まずは三好一族を滅ぼした。
実権を握ると、
自分を嫌った第13代将軍足利義輝も暗殺した。
★軍の象徴である旗や、
幟(のぼり)を持つ旗大将の果たす役割は、
一軍の大将と同じくらい重要。旗大将の進退は、
兵士の士気に絶大なる影響を及ぼすからで、
その為に兵士の中でも、
度量があり機転が利く優れた人が選ばれた。
★1575年の長篠の合戦で、信玄の時代から、
無敵を誇った武田の騎馬軍団が滅ぼされた。
織田信長・徳川家康の連合軍が、
掘ったあちこちの空掘に、
馬が足をとられているうちに鉄砲を撃ち込まれ、
武田勝頼軍は手も足も出なかった。
★合戦中に戦闘のない時に武士達は、
体を鍛える為に相撲をとったり、
鳥撃ちをしたりして緊張をほぐした。
又、ギャンブルも盛んで、
負けた武士は次の合戦で手柄をあげて、
恩賞で負け分を取り返そうと必死で戦った。
★戦国時代のまっさかり武将は兜に凝り始めた。
鎧が実用的になり個性がなくなった為、
一般の兵士との差が、
見た目では解らなくなってきたから。
★「釣井楼(つりせいろう)」とは、
敵の城を空中から偵察する物。
様子を窺う(うかがう)為に、
穴を開けた厚板で作った箱に人が入り、
井戸の水を汲む要領で綱を引っ張ると、
宙づりになり敵の城内を見渡せる。
台車がついているから移動も楽に出来た。
★「亀甲車(きっこうしゃ)」とは、その名の通り、
亀の甲羅の形をした戦国時代の戦車。
危なくなると後部についている綱で、
味方の陣地に引っ張り戻すというのが笑えるが、
関ヶ原の合戦では、
ヨーロッパからの輸入物が使われた。
★戦乱の世が長引くと、
攻撃兵器も大掛かりになってきた。
「搭天車(とうてんしゃ)」は、
巨大ハシゴ車で城壁にひっかけて、
城内に突入する為の物。
「釣菱板(つりびしいた)」は2.6m四方の板に、
刃物を隙間なくつけ敵の頭上に落として使う。
★「木幔(もくまん)」は、
台車に乗った4.5m四方の巨大な盾。
はじめは木で作られていたが、
相手の攻撃を防ぐ為に、
生皮を貼ったり鉄板で加工するようになった。
敵の槍や鉄砲を避けながら、
城に攻め込む為の防具。
★火縄銃の性能は意外に大した事はなかった。
弾の飛距離は500mだが、
200mまで寄って鎧がへこむ程度。
敵を殺そうと思ったら、
100mまで近づかなければ駄目で、
命中率は6〜7割程度だった。
★日本に初めて銃身に、
ネジを使った鉄砲が入ってきたのは1543年。
種子島に、
緊急避難したポルトガル人が持ち込んだ。
種子島当主の種子島時尭(たねがしまときたか)
が、一目で気に入り2丁買って研究。
翌年には国産鉄砲の第1号が完成している。
★戦国時代の武将が出陣時に着たのが大鎧。
これには着方があり、
手袋や籠手等の手につける物は右から、
下着や足につける物は、
左から先に通すのが決まり。
24段階の手順があったという。
★戦時下では個人の手柄よりも、
軍の勝利や団結が最優先された。
徳川の重臣・大須賀五郎左衛門の甥は、
敵の大将の首を取ってきたが、
それが抜け駆けと知った徳川家康は、
みせしめの為に、
その若者に切腹を言い渡したほど。
★軍師とは作戦を練るだけが仕事ではない。
占いで開戦の日時や方角を、
決めるのも重要な任務。占いの結果、
敵も同じように「日が悪い」となると、
合戦自体をとりやめる事もあったほど、
当時は縁起をかついでいた。
★戦国時代の城には、山頂近くに築いた山城と、
中間の平山城、平地に築いた平城の3種類がある。
時代が進むと城は外敵と戦うだけではなく、
官庁の役割や、
領民に存在感を与える必要性が出てきた為に、
平地に築かれるようになった。
★武士の日常は早寝早起き。
朝は4〜6時には起きて8時に朝食。
8時過ぎまで寝ているなどもってのほかで、
やる気がないとみなされる。
午後は2時に夕飯(?)を食べて、
8時には寝てしまう。
★南北朝時代の騎馬武者の武器は、
弓矢から太刀へ移り、室町時代には、
馬から降りて槍を使うのが主流となった。
そして、鉄砲が使われはじめると、
合戦は個人の技よりも兵の数によって、
勝敗が分かれる集団戦に突入していった。
★日本ではじめて、
額面を表示した金貨を作ったのは武田信玄。
金山の開発に力を入れていた信玄は、
1567年に「甲州金」を発行したが、
軍用金や家臣への恩賞として使っただけで、
一般通貨として使われる事はなかった。
★城攻めにも天才的な才能があった豊臣秀吉の、
モットーは、時間をかけて敵を締め上げる事。
無理に攻め込めば、
敵の10倍の兵力が必要になるからで、
時間をかけて相手を不安にさせ、
最終的に寝返らせる心理作戦も得意だった。
★土豪は、普段は農業をしていて、
いざという時に、
合戦に参加する雇われ兵のような存在だが、
軍事力の基盤となっていた事も確か。
豊臣秀吉配下の蜂須賀小六も土豪で、
決まった雇い主はなく、
大名家を渡り歩く集団もいた。
★戦場で怪我をした時の治療法は、
メチャクチャだった。
馬糞を水に溶かして飲ませたり、
小便で傷口を洗ったりしていたという。
身分の低い兵隊は木に縛りつけて、
麻酔もせずに矢を抜いていたという。
★「千成ひょうたん」は、
豊臣秀吉の馬印(大将の馬の近くに立てる目印)。
秀吉は手柄を立てるたびに、
この馬印に縁起物のひょうたんを付けていき、
千個成そうと気勢を上げていた事が、
由来だと言われている。
★夏の夜を彩る花火の元祖は狼煙。
元々は敵軍の侵攻等を伝える為に、
戦国時代の武将達が通信用に使っていたもの。
約150kmの距離を僅か2時間で伝えたという。
★豊臣秀吉の行動力は物凄い。
柴田勝家との賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で、
兵力が多い方が有利と解ると、その日のうちに、
1万5000の兵と共に、
5時間で52キロもの距離を移動。
すぐに電撃作戦に出て勝家を倒してしまった。
★戦いに勝った後にもっとも大事なのが首実検。
討ち取った敵兵の首を持ち帰り、主君に、
どんな働きをしたのか確認してもらう作業。
調べる時は、死者に敬意を払う意味で、
完全武装で対面し、終わると手厚く葬られた。
★戦国時代の風習で、
今も残っているのが結婚式の「三三九度」。
出陣前に「打ち勝って喜ぶ」をもじった
-うち-アワビ、-カチ-グリ、
細かく切った-コンブ-と一緒に、
3つ重ねの盃を3回に分けて飲んだのが、
「三三九度」となった。
★合戦では敵との距離が、
200〜300mになると鉄砲隊が発射、
50メートルになると弓隊が矢を放つ。
20メートルまで接近してきたら、
槍隊が登場して敵を突きまくり、
最後に騎馬隊が、
怒涛のごとくなだれ込んで勝負を決める。
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