新撰組の話

★天然理心流は、 幕末の東京西部にあった剣術の流派。 4代目宗家が新撰組局長の近藤勇だった事から、 日本全国へ広まった。普通、 入門から指南免許までに、20年かかるところを、 近藤勇はたった13年で上り詰めた。 ★近藤勇が、 天然理心流の4代目宗家となったのは、 15歳の時に自宅に入った盗賊を、 追い払った事がきっかけ。 相手の心を読んで隙をつき、 深追いしないという手腕に、 3代目・近藤周助が感動。養子に迎えたという。 ★近藤勇の愛刀「虎徹」は、 元々古い鉄を鍛えて作った刀だから、 「古鉄」の銘が打たれていた。 虎徹となったのは、中国の名刀で、 虎の形をした岩を、虎と間違えて斬ったら、 岩を真っ二つにしたという伝説から。 ★近藤勇は、新撰組を武闘組織で、 終わらせたくなく、慶応元年(1865年)に、 和歌や国学の教師として、 伊東甲子太郎武明を招き、 「筆頭文学師範」に任命した。 隊士に、武士として最低限の教養を、 学ばせたかったのだろう。 ★幕臣の勝海舟は、 近藤勇と新撰組が江戸に居たら、 大戦争が起こると心配し、 言葉巧みに近藤勇を説得し甲府へと進軍させた。 この時に近藤勇は、 5万石の大名と同じ扱いとなり、 徳川幕府の要職である若年寄格に、 任命されている。 ★土方歳三は薬屋の4男坊だが、 商人には向いていなかった。 9〜10歳で上野松坂屋に奉公に出されたが、 店の人と喧嘩して、 36km離れた実家に歩いて帰ったり、 2回目の奉公先も、 女性関係が原因で辞めたりしている。 ★「新撰組遺聞」という資料には、土方歳三が、 “色白で目鼻立ちがくっきりしている美男” とある。今も残る写真を見ても、 綺麗な顔で京都では、 大モテだった事もうなずける。 ★土方歳三は、京都時代に、 密かにオランダ語を勉強していた。 共に幕府の軍艦で、函館まで逃れた 幕府陸軍奉行・大鳥圭介は、艦内で土方歳三が、 オランダ語で書かれたヨーロッパの、 軍学書を読みふけっていたと後に証言している。 ★新撰組は言わば幕府お抱えの警察。 普段は市中を巡回し、 事件が起きて現場に出動すれば、 特別手当等も出ていた。 ちなみに池田屋事件(元治元年六月五日)の時は、 土方歳三が刀をチェックし、 活躍の度合いで特別手当の金額を決めたという。 ★池田屋で、 反幕府派の重要人物を斬った新撰組には、 局長・近藤勇が今の金額で約600万円、 副長・土方歳三が約460万円。 沖田総司ら隊長には約400万円、平隊士でも、 約300万円のボーナスが、 支給されたと記録にある。 ★土方歳三の愛刀は「和泉守兼定」で、 今も東京都日野市の土方家に残されている。 沖田総司の愛刀は「菊一文字則宗」で、 沖田総司の死後、 ゆかりのお寺に奉納されたと伝えられている。 共に名刀で時価1億円以上とも言われている。 ★初期の屯所(詰め所)では、 近藤勇や、土方歳三も、 他の隊士と一緒に雑魚寝をしていた。 後に大きな屯所が立てられてからは、 幹部には6〜8畳の個室、近藤勇には、 床の間付きの12畳と6畳の、 ニ間が与えられていた。 ★新撰組に剣術の稽古は欠かせないが、 近藤勇は自分では稽古をつけなかった。 隊士が汗まみれになっているのを高見の見物。 一緒になって汗をかき稽古をつけていたのは、 いつも土方歳三の役目だったらしい。 ★討伐軍との戦いが激化しはじめたころ、 土方歳三が作った「局中法度」は、 新撰組の鉄の掟だった。 仲間内での喧嘩や食事への文句の禁止に始まり、 戦場では一歩も後退してはならない等、 大変厳しい内容となっている。 ★最盛期は200人以上の隊士がいた新撰組だが、 隊士全員が勇敢とは限らなかった。 有名な池田屋襲撃の時に、 急病人が20人以上も出たのは、 斬り合いが怖くて出撃を避ける為で、 流石の土方歳三も困りきったようだ。 ★討幕運動の中心だった長州(今の山口県)の、 浪士達が京都の宿屋・池田屋に集まる事を、 つき止めた新撰組は、 近藤勇以下6名の隊士で急襲。 12名を斬り殺し23名を逮捕。 明治維新が1年送れた程の大事件だった。 ★沖田総司には、 純情素朴な天才剣士というイメージがあるが 実は結構な女好き。京都はもちろん、 大阪にも馴染みの芸者が居て、 せっせと通っていた。 又、持病の結核が悪化したのも、 女遊びが過ぎたからという研究者もいる。 ★新撰組の中で、 実戦で最も活躍した隊士の一人といえば斉藤一。 結成初期から参加して、 西南戦争まで戦い抜いたのは、 三番隊隊長の彼だけ。 多くの戦場を生き抜き、 明治維新後は警視庁に勤めて71歳まで生きた。 ★新撰組10番隊隊長の原田左之助は、 短気で有名だった。 若い頃、喧嘩相手に「切腹の作法も知らない」と、 馬鹿にされた事に腹を立て、 いきなりその場で腹を切ってしまった。 しかし、傷が浅かった為に死なずにすんだ。 ★剣より頭で働いたのが、 監察・副長助勤の山崎烝。 腕も立つが、とにかく頭が良く、 西洋の緊急治療も心得ていた。 自称・新撰組の医者。 又、新撰組には関東出身が多い中、 京都の地理に詳しい大阪出身で、 スパイとしても活躍した。 ★長男・三十郎、次男・万太郎、三男・昌武、 の「谷三兄弟」は、 名家出身という事から新撰組隊士となり、 昌武等は近藤勇の養子にまでなった。 ただ、3人とも剣の実力はなく、 遊び好きで近藤勇を困らせていたという。 ★将軍・家茂の典医だった松本良順は、 近藤勇に招かれて慶応元年(1865年)に、 日本初の集団検診を新撰組隊士全員に行った。 そして、病人や負傷者を屯所内へ移動させ、 日本初の病室を作って治療にあたっている。 ★新撰組が有名になると、 権力者や有名人の子息達も沢山入隊してきた。 しかし、その多くが使い物にならなかった。 中でも、学者・佐久間象山の息子は、 剣も学問も駄目、酒ばかり飲んでいたので、 新撰組初の除隊処分となった。 ★新撰組内で敵と戦って斬り殺された者は、 21名と意外に少ない。 逆に主要メンバーで39名、 平隊士を入れると70名以上が、内部権力闘争や、 脱走等、規則違反の罪で暗殺されたり、 切腹に追い込まれている。 ★慶応年間の新撰組の年間予算は、 幕府からが1万5000両で、 今の貨幣価値で30億円。 複数の豪商からの出資が7万1000両で、 142億円。合計172億円もの大金で、他にも、 大名からの臨時収入が50億円以上もあった。 ★山形の模様に「誠」という新撰組の旗は、 有名だが何種類かあった。 「誠忠」の2文字が入っている物、 山形の模様がない物、 文字が金糸で縫われている物等多数。だが、 基本はやはり赤地に白抜き文字の「誠」だった。 ★新撰組の武器といえば、 刀と槍だけだと思われがちだが、 実際は豊富な軍資金で、 当時としては最新鋭の大砲や、 ライフル銃、拳銃を揃えていた。 そして、屯所である西本願寺境内で、 砲撃・射撃訓練をして僧侶を怯えさせていた。 ★新撰組は京都・大阪の豪商を、 半ば脅迫しながら借金をしていたが、 現代まで残る借用書を見ると、 豪商達は100万円貸せば、1年後には元利合計で、 400万円になるような高金利をふっかけていた。 ★新撰組が命がけで戦った戊辰戦争だが、 一般大衆にとっては一生に一度の大イベント。 甲府付近で起こった新政府軍との戦いは、 戦場を見下ろせる山上に近辺の住民が、 弁当と水筒持参で、 見物に来る程の大騒ぎとなった。 ★全盛期の新撰組は局長・近藤勇、 副長・土方歳三を指揮官として10部隊を編成、 それぞれに隊長、副長を置いた。 この部隊編成は、 フランス陸軍を模範にしたもので、 武器も刀や槍だけでなく、 鉄砲や大砲も備えている。 ★幕末の商人はしたたかだった。 豪商・鴻池屋は、新撰組に、 現在で数億円単位のお金を貸したが、 初めから返してもらおうとは思わず、 用心棒代と思っていた。 近藤勇は借金に感謝して鴻池屋を特別に警護。 多くの盗賊から守っている。 ★酒を飲んだら暴れる、 豪商の蔵に大砲を打ち込んでお金をゆする…等、 芹沢鴨の行動が新撰組の評判を落とした事から、 近藤勇、土方歳三、は芹沢鴨を暗殺する事を計画。 酒を飲ませた上で、沖田総司に斬らせている。 ★京都・島原の角屋といえば、 日本一の格式を誇るお茶屋だったが、 芹沢鴨はそんな事はお構い無しに酔って大暴れ。 店の中を壊したばかりか、 大酒樽を斧で叩き割り、 その上、主人まで殴りつけたという。 ★新撰組は反幕府派の浪士だけではなく、 自分達に喧嘩を売る者なら誰でも切り捨てた。 大相撲の力士50〜60名が、 ささいな事から殴り込みをかけて来た時も、 話し合いもせず、 刀を抜いて斬り合い死傷者30名を出した。